机上の理論・・・

技術の「感覚」は人によって違って当然です。
指導者が変われば、目的は同じでも
指導方法や表現は大きく変わります。

それが「普通」です。

あの人が言っている事が「正しい」とか
「間違っている」と言う会話は、日常茶飯事ですが

問題なのは、その選手にその指導方法が
「合っている」のか、「合っていない」のか・・・

そこが重要ではないでしょうか?

自分の言った通りやらない
素直じゃない
人の話を聞いていない

と、指導者が怒り、その子どもをベンチから外したり
試合に出さなかったり・・・

チームのルールやマナーを守らなかったら、それはわかりますが
技術的なことでの制裁は、大人の行動ではありません。

特に技術論に、「絶対」はありません。
「絶対こうしなくてはいけない」という言葉は
当てはまりません。

ただし・・・

自分の中の「絶対」を持っている選手は強いはずです。

その「絶対」をつかんだ選手は、自分で自分をコントロールする力が
芽生えてくるので、たくさんの「感覚」が生まれます。

ただ上から目線で、「こ~しなさい、あ~しなさい」の世界に慣れてしまうと
「感覚」のない選手に育ってしまいます。

能力の高い選手は「感覚」を持っています。
だからこそ、自分の考えを持っているので
それを生意気とレッテルを貼るのではなく
逆にその「感覚」を磨いてあげるくらいの
大人の度量が必要になってきます。

プロを目指す人間は、一癖も二癖もあるのが特徴です。

親の期待・・・

親子でありながらも
親には親の人生があり
子どもには子どもの人生があると思っています。 

親が子どもに依存し、子どもが親に依存していては
それは「自立」の妨げになってしまいます。

親が子どもに対し、過度に期待する光景は
少し違和感を感じてしまいます。

子ども達は、良い子であれば良い子ほど
親の期待に答えたいと思っています。

期待を裏切るような失敗をしてしまうと
ちょっとしたことであっても、自分を責めたり
自信を無くしてしまいます。

この姿は、親も見落としてしまいがちで
子ども自身も、あまり気が付かないので
後々大きな心の問題に発展してしまいます。

親は子どもを追い込むつもりはまったくないのに
子どもは、それが原因で挫折や無気力になってしまう危険性があり
非行に走ったり、荒れてしまったりするケースがあるそうです。

「そんな程度のことで・・・」と思えることでも
子どもにとっては大きな問題に発展し
学校に行きたくなくなったり、対人関係が思うように行かなくなり
命を捨ててしまいたくなるまで、追い込まれてしまいます。

「やって出来ること」
「やったって出来ないこと」

何でもかんでも、「頑張れ、頑張れ」
「やれば出来る」と言うわけではありません。

そこには、「出来ること」
「出来ないこと」の判断が必要です。

私達が、今を何とか生きていられるように
親がした失敗経験を、子どもにさせないように
強くこだわる必要はないように思います。

大人がした失敗経験は、生きていく上で
必要なことであり、大きな財産になっています。

仮に嫌なことだったとしても、マイナスイメージを引きずるより
プラスのイメージに転換して行った方が、運を引き寄せるはず・・・

その根拠は、野球を通じてたくさん経験しました。

「エラーしたあと」
「凡打したあと」

ここをどう考えるかによって、その後の結果が変わってきます。

レギュラーになれなかった
ベンチに入れなかった

すべて小さなことです。

子ども達が、コツコツ頑張ったことのプロセスを
認めてあげてください。

「自分磨き」を継続するために
「子どもに対する期待」は捨てる必要があります。

子供に対して「期待」を捨てることが出来た時
困った時に、親以外の人が手を差し伸べてくれて
真っ直ぐに成長することができるのではないでしょうか。

親が出来ること
親が出来ないこと

全て親がやるには限界があります。

「親の期待」は黄色信号です。

そのまま進むのか
それとも、ブレーキを踏むのかは自由で
運転している大人の判断が求められます。

親が果たせなかった夢を、子どもに託すのではなく
子どもには子どもの夢を、つかんでほしいと願っています。

いろんなスポーツを楽しもう・・・♪

たくさんのアスリートが、幼少時代の経験をもとに
「フットワーク」の重要性をうたっています。

足さばき・・・

幼少時代は、「おにごっこ」「木登り」など
体を使った遊びや、危険を伴った遊びを中心に
昭和の子ども達は成長してきました。

遊ぶ場所の確保が難しかったり、塾に通ったり
「危ないからやめなさい!」と注意されたり
子ども達の環境は、大きく様変わりしました。
子ども達も、「忙しい」環境にあります。

スポーツおいては、競技を始める年齢が早まり
チームに所属し、ひとつのスポーツに固定した活動が目立っています。

天才を育てるためには、「幼少時代からの英才教育」が必要と
テレビなどでも「スーパー幼稚園生」を取り上げ
その考えは加速しはじめました。

本物の幼少期からの育成は存在するのかもしれませんが
親元を離れるわけではなく、親の考えや言葉や接し方による影響は
大きなものになるのは必然です。

あれもいい
これもいい

親があてがい、子どもは仕方なく言われたとおりにする良い子が
増えてはいないでしょうか?

「僕は、これはやりたくない!」と言える子どもは
減ってはいないでしょうか?

もっと子ども達には、ノビノビと自由に
逞しく育って欲しいと願っています。

「野球ばっかり」
「サッカーばっかり」

この「ばっかり」は、子ども達の動きを
狭めてしまうように思います。

たくさんの競技や遊びの中に
「運動神経」を磨くヒントがあると私は考えているので
ウォーミングアップに、その要素を取り入れています。

古い考えと、おしかりを受けるのですが
子ども達には、たくさんの競技を楽しんでもらいたいと思います。

野球チームの練習に
サッカーあり、バスケットあり、バレーボールあり・・・

野球に必要な要素が、たくさん隠れていて
それこそが「宝の山」です。

野球の練習をつまらなそうにやる子ども達が
他の競技になると盛り上がります。

それが正解です。

野球の練習を、足が痛いと言っている子どもが
サッカーになると痛みを忘れて楽しんでいます。

「夢中になる」

その力をうまく利用して
子ども達を後押しできれば・・・

原点を探しに・・・

久しぶりに宮城に戻り、お世話になっている南三陸町
追悼式に参列させていただきました。

キャンプでお世話になってる、芳賀さん・佐藤さん
星さんのご家族が、わざわざ会いに来てくれました。

リョウ・タク・レオ・ヨシキ・トモキ・カズヤス・・・
スクールに参加してくれていた子ども達との再会。
タカアキは、病院抜け出し計画が
失敗したそうです(笑)

みんなの逞しく成長している姿を見れて
本当に嬉しくてたまりませんでした。

会えなかった子ども達は、元気にしてるかな?
連絡出来ずにすみませんでした。
いつか近い将来、再会を楽しみにしています。

追悼式終了後に、お世話になっている町長と
親戚とも会うことが出来ました。

私が生まれて、3才まで過ごした
石巻市雄勝町名振(おがつちょうなぶり)に行ってきました。

私が生まれた自宅周辺も被害は甚大です。
地元の方々には、不謹慎で申し訳ありませんが
一日も早い復興を願い、写真を掲載させていただきました。

この坂の上で、オヤジの帰りを兄と待っていました。
当時は、長い長い坂と記憶していたのですが・・・

自覚と責任・・・

中三のスクール生のプレーを観察していて・・・

バランスの良さだけではなく
プレーがどっしりと安定しています。

「もうすご高校生」

この意識があるからなのか
ひとつのプレーに重みがあります。

「心構え」

これは「できるできない」ではなく

「どう考え」
「どう行動するか」

この差は、大きいと思います。

本気でうまくなりたいと思っている子どもは
ひとつのプレーに「責任」と「自覚」が見えます。

アドバイスをしても変化のない子ほど
何も考えていません。

「意識する」

この当たり前のことの意味合いを
どう伝えるか・・・

「うまくなりたい」と思っていなければ
何を伝えても、変化が出るはずもなし!

「信頼関係」がなければ
継続する力が生まれるはずもなし!

この「心」を育てるには・・・

答えを探しに、宮城に向かいます!